okurejeの日記

フィギュアや映画や本などについて、ゆるく書かせていただきます。

『マッドマックス:フュリオサ』 感想

 

【蛇足】だそく:余計なつけたし。無用なもの。

 

よくアクション映画を鑑賞する心得として、「頭を空っぽにして観れば楽しめる」などと言うが、その心は「突っ込み所は多いが、細かいことを気にせず鑑賞すればよい」の意かと思うが、そんなの無理筋もいいところ!

細かいシーンも隙無く作り上げてこそ映画作品だし、そんな細かいシーンを気にせずに映画は鑑賞できない!
本作『マッドマックス:フュリオサ』を観て面白かったという人は、前作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を観ていない人か、もしくは本当に「頭がカラッポ」な人だろう。

 

本作は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』に登場したフュリオサ大隊長の前日譚を描いたスピンオフ作品で、マッドマックスこと「マクシミリアン・ロカタンスキー」は登場しない。(チラッとだけ後ろ姿で登場するが・・)
冒頭、故郷であった「緑の地」で、妹と果実を採取していた幼い「フュリオサ・ジョ・バサ」は、よせばいいのに、「緑の地」に侵入してきたバイカー達のバイクにこっそり細工しようと近づくが、すぐに捕まってしまう。それってダチョウ倶楽部の「押すなよ!押すなよ!」以外の何物でもない!
バイカー集団「バイカー・ホード」のボス、 クリス・ヘムズワースが演じるソー・・・じゃない、ディメンタスに囚われたフュリオサを助けにきた母親、「鉄馬の女たち」のマリー・ジョ・バサも、せっかく娘を見つけて見張りの男を殺したのに、女の見張りを殺さなかったせいでバイカー達に追われ、処刑されてしまう。それってダチョウ倶楽部の「押すなよ!押すなよ!」以外の何物でもない!

 

まず、本作のメインヴィランである、クリス・ヘムズワース演ずるソー・・じゃなかったディメンタスというキャラクターが、どうも中途半端なキャラクターでいただけなかった。
残忍なのか気がいいのかイマイチ判然としないキャラで、目的と行動もハッキリしない。
筋が通っていないヴィランというのは、観ていて辛いものがある・・というか、髪も長くて、「何を演じても木村拓哉」じゃないけど、ソーにしか見えない!

若きフュリオサを演じたアニャ・テイラー=ジョイも、確かに目力は強いがスタイルが華奢なので、これが後のシャーリーズ・セロンに・・とは到底思えなかった。
途中、なぜかマックスを髣髴とさせる警護隊長ジャックといい感じになったりするシーンもあるが、どうもストーリーが無駄に長くてあちこちフラフラするので、マッドマックスという作品に求めるシンプルかつ爽快さが全く得られず、観ていて眠くなってしまった。

 

 

そもそも『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でのフュリオサは、イモータン・ジョーの子産み女となるが、ジョーの怒りを買い片腕を失う、という設定じゃなかったっけ?
なんだか本作、いかにも取って付けたような脚本で、妙に抒情詩っぽい表現を多発してて、何ともしゃらくさい。

 

 

本作を鑑賞後、口直しに改めて『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を鑑賞したが、やはりフューリー・ロード(FR)は傑作。
そしてFRでは、マックスは狂言回しでしかなく、主役はあくまでシャーリーズ・セロンが演じたフュリオサであり、フュリオサの物語である。

そう。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』はマックスが主役ではなく、フュリオサが主役であり、シャーリーズ・セロンがこの作品の華なのだ。
なのでジョージ・ミラー翁の気持ちはわからなくはないが、あえて再び、フュリオサを掘り下げて1作品を作り上げる必要は全く無かったと思える。
いやー失敗作、失敗作!

解散!解散!

 

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